近頃、思うのです。(2007/1/13)
石油と食料が不足すれば、いやでもこの国 日本は戦争で他の国へ、取りに行きます。今の内から戦争の準備をするよりも、エネルギ−と食料を、この国の内でまかなうために、この国にある知恵お金少しの勇気を使いましょう。この国の掲げるべき目標は、「地産地消」が柱となる社会です。


あ ゆ み
店主が太陽電池を捜しはじめたきっかけは、原発反対のビラを配布している時に言われた台詞「そう言ったって、電気を使っているんだろう」でした。それほど負けず嫌いではない店主ですが、この時ばかりは、なぜか、汚れた電気なんかいらないと、思いつめたものでした。


太陽光発電・独立系

国立市「タマ1号」1990年
近所の仲間とワイワイ言いながら、1kwの太陽光発電システム「タマ1号」を自宅の屋根に取り付けました。お天道様の光で冷やしたビールのうまかった事。この太陽電池システムは、13年たった今も、変わらずに電気を作り続けてくれています。
1991年、全国の仲間と共に、伊豆で「エネルギー市民フォーラム」を開催しました。100名以上の「変わり者」が集まりました。風車、メタン醗酵、木質関係、水車など、現在に繋がる技術が、市民の手で育まれていました。
この時の有志でつくったのが、「太陽光発電部会」です。この部会は、「電力事業の自由化、分散型エネルギー利用者への補助制度の確立」などを柱にして、各省庁、大臣宛に要望書を提出します。1992年から、94年にかけてです。このころ、メ−カーは市民を全く相手にしていませんでしたから、店主は、請われるままに、太陽光発電の機器を提供しはじめる事になります。
自然エネルギーの利用拡大を担って来た大きな力は、昔も今も、市民だと、店主は考えています。使う所で、必要に応じて、使う人がつくり出す、自然エネルギーって、そんなものに違いないと、頑なに信じているからです。自分達で作る、自分達で使いこなす、そう言った方々と、出会う事が、店主の最大の喜びです。だから、独立系と呼ばれる電力会社とは切り離されたシステムが大好きです。
 もちろん、店主は農業などの現場で使って欲しいと言う願望があり、ポンプとか、電気牧柵機とかに力を入れています。

農業利用  ポンプと電気柵

1998年、小川町自然エネルギー学校で設置したポンプは、今でもしっかりと水をだし続けています。 ここでの太陽電池も実は、手作りです。

ポンプはスプリンクラーでも活躍します。神津島のハウス内での様子です。
電気牧柵機も、野生動物が元気を取り戻しつつある昨今では、農業の必需品になるかも知れませんね。



雨水利用システム・出町小学校

2001年に富山県の出町小学校の事例を写真で紹介します。12wクラスの三角太陽電池8枚を使い、4台の直流ポンプ(壁面緑化散水用およびトイレ給水)と、LEDライト・街灯の電源にしました。



手作りLED門灯と散水ポンプ(2002年、2003年)

可愛くて、納得できる太陽電池の利用例を紹介しましょう。
 埼玉県小川町のKさんのお宅は、道路より少し高くなっていて、石の段が二段だけ、門にあります。暗くなるとつまづいたりして危険です。写真は、御主人が趣味で焼いた灯具をつけたLED(6球)の門灯です。12Wの太陽電池が使われています。
翌年には、単独浄化槽が不要になりました。その際、そのタンクを雨水貯留用に転用し、散水用に太陽電池駆動のポンプをとりいれました。(写真)太陽電池は24Wです。そのほかに、コントローラ、バッテリー、ポンプ制御装置等です。
ちなみに、小川町では単独浄化槽の雨水タンクへの転用には、補助金が出ます。

壁面緑化への散水システム (2003年、世田谷区二子玉川)

国土交通省による道路架橋面での緑化実験の風景です。雨水を溜め、定期的に散水するシステムです。短いドリップチューブへのポンプ給水は、なかなかどうして、難物でした。そこで出来上がったのが、AM-02です。
 2m四方ほどの小さな壁面緑化ですが、ここには、ポンプシステムだけではなく、初期雨水のカット、貯水の調節....様々な工夫が詰まっています。やがて、都会全体が緑のベールに覆われる日が来ると良いですね。空気もきれいになるし、クーラーも要らなくなる。



「系統連系」(太陽光発電と言うと、今はこのシステムを指す程になりました。電力会社と売ったり買ったりするシステムです)
千葉県M宅 1994年

1994年、千葉県のM宅で、系統連系を行った時、まだ、国による補助制度は成立していませんでした(2.24kw)。全国でも、数番目の事例です。東電との間で連系の契約が成立するまでに、半年くらいかかった頃です。使用したインバータは、大企業のものではなく、静岡県の佐藤電機工作所という町の技術屋さんが作り上げたものでした。

太陽光発電への補助金が出るとなると、企業はどっと参入して来ます。自然エネルギーは市民主導でと、店主らは「自然エネルギー事業協同組合レクスタ」を立ち上げます。現在は、本当に多くの市民グループが自然エネルギーの普及と、町起こしに活動しています。嬉しいですね。

店主は、連系システムに関しては、次の社会に役にたつ技術かなと考えています。地元の材木や水力などを使ってできた電力と、家庭でできた電力とを地元のエネルギ−組合(公社)が、地元に還元する仕組みです。
埼玉県小川町町営住宅 2001年

エルガの地元の小川町の町営住宅の屋根に取り付けた太陽光発電システムを紹介します。容量は4kw。単結晶タイプです。(写真)

地元でエネルギ−公社ができれば、各自治体で出す補助金も、もっと意義がでてきますね。


「ビオトープ」「環境共生型居住空間

環境共生住宅の第一号「ルミナス小金井」は、東京の武蔵小金井市にあります。今でこそ「環境共生住宅」という言葉は、当たり前のようになりましたが、1995年当時は、施主さん(日本勤労者住宅協会)も賭けだったと思います。上記のレクスタの組合員も参加しました。揚水風車、太陽熱温水器、そして、店主は独立系の太陽電池です。明かりと、雨水利用のポンプ電源です。直流ポンプを見たゼネコンの監督さんが「なんだ、おもちゃか」と口にしたのを、今でも鮮明に店主は覚えています。

聖フランシスコ子供寮、東京都大田区 1998年

90坪弱の空地に、30トンの雨水を蓄え、それをもとに水辺を作ります。水の流れは、モルザン揚水風車と、50Wの太陽電池を直結した直流ポンプが作ります。 写真の様子は3年後のものです。水田と、水性植物の草むらになっていました。小さな子供達にとってここは冒険の場。三人して譲り合いながら、背丈程もある草むらに分け入って行きました。
店主はと言えば、風車に取り付き、6メ−トルの上から、冒険三銃士を見下ろしていました。風が気持ち良く吹いていました。それ以上風が強くなったら、風車上での作業は止めましょう。
「輸入太陽電池」

太陽電池は、連系に使用するものに関しては、かなり安くなって来ています。しかし、一枚二枚で楽しむための太陽電池は、なかなか値が下がりません。そこで、店主は、思いきってキュ−バから輸入してしまいました。セル、部材はドイツ製です。出力は従来のプラスマイナス10%以内での表示法ではなく、最低で示します。DSM-20であれば、20W以上の出力が出ることを意味します。何せ、小さな会社なので、資金的に限界があり、数量は限られています。先着順と言う所でしょうか。


「手作り太陽電池」

「日本から原発が、インドネシアへ輸出されそうだ」という話を聞き、「そんな馬鹿なことはやめようぜ」と言うことで、店主は1994年から、インドネシアと関わって来ました。未電化地域へ太陽光発電の技術を伝えるNGOソ−ラ−ネットです。作り方、使い方、資金等を支援しています。(リンク) そこで生まれて来た技術が「太陽電池を手づくりする」です。このノウ・ハウは、ソーラーネットにより、出版され、公開されています。「ポランティア育成講座」として、年に数回の講習会も開いています。
これとは別に、自分だけの、自分達の太陽電池を作ってみたいと言う方を対象に、随時(要予約)教室を開いています。話しがあえば出張も可能です。工業高校での実習などに御相談下さい。新しいスタイルの、市民共同発電所かもしれませんね。
もともと店主のねらいは、安くて良い部材と技術を、未電化地域に直接届けることですから、資材の原価を公開しました。これよりも安いセットが出現することを期待しています。
東京マイコープ(2003年)
江戸川配送センターのショウウィンドウに、手作り太陽電池を設置したいと言うことで、東京マイコープ環境部会のメンバーを中心に、24Wの太陽電池を二枚つくりました。作業は簡単なハンダ付けで、5時間ほどかかりました。はじめてハンダを持った方でも、一枚作る頃には、もうベテランです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
 店主の独り言
大企業は、技術をみんな囲い込み、資本に物を言わせて、大量生産して行きます。でも、世界中で共有し、世界中の人々が手軽に作れるならば、一企業の大量生産等、足元に及ばないくらいの大量生産が可能になります。きっと、そのレベルにまで、技術は練れて行かないと完成したものと言えないのかも知れませんね。今はそのための仕組みが、あちらこちらで試みられているのでしょうね。
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